『石垣島で台湾を歩く もうひとつの沖縄ガイド』

石垣島からは、沖縄本島より台湾のほうが近い。初めて八重山に行った1999年には、神戸から石垣島経由で台湾までの旅客船もあった。当時はあやぱにモールと呼ばれていたユーグレナモールには、中国語で「歓迎」の文字が踊っていた。ミンサー織の研究をしていたとき、聞き取りをした方は、台湾からの引き揚げ者だったし、パイナップル栽培を最初に始めたのは台湾からの移民だという話も、移住先は名蔵が多いことも、名蔵のお祭りが台湾式であることも、その後、知った。

日清戦争後、日本統治下だった台湾と距離的に近い八重山の間に、行き来があったことも、台湾が疎開先になったことも、想像には難くなかった。三線を始めてから、師匠の師匠が戦前に一時的に台湾に行っていたことを知っても、そういうこともあっただろうね、と思っていた。

でも、その台湾って、わたしが2泊3日の観光で行った台湾(たしか2003年か2004年)と同じじゃないよね、と思い至ったのは、じつはごく最近のことだ。わたしが知っているのは、国民党が台湾を統治してからの台湾。いや、知ってるといえないほど、あまりよく知らない。でも、師匠の師匠が見た台湾、パイナップル栽培を八重山に持ち込んだ人々の出身地だった台湾は、だいぶ違うはず。

この本はだいぶ前に買っていたもので、知ってることばかりだろう舐めてかかって読んでなかった。だけど、いまが読みどきとばかりに開いてみた。わかったことが少しと、謎が深まったところが大部分(笑)。

日本統治下に、台湾の住民は「日本人」とされ、石垣島に渡ってきた人々も「日本人」であったが、1945年の終戦により「中華民国」の国民となった。1972年、日本が中華人民共和国と国交を回復し、中華民国との外交関係を断絶すると、石垣島に住む台湾系住民の国籍は「中華人民共和国」になってしまった。「中華人民共和国」の国籍を取得するか、日本に帰化するか、日本を離れるか、の選択を迫られて、1970年代に日本に帰化する人が急増したのだという。この本で体験談を語っている台湾出身者が日本名である理由が、83ページまで読み進んでやっとわかった。

1930年代に台湾で盛んだったパイナップルの缶詰生産が1社に統合され、技術のある人たちが石垣島での事業化を試み、1938年に大同拓殖株式会社を設立。戦中に工場が軍に接収され、会社は消滅したけれど、バス停の「大同」に名前を残している。

いまでは八重山の観光の柱の一つにもなってる水牛は、1930年代に台湾から開墾のために持ち込まれたそうだ。なんだ、まだ100年も経ってないじゃないか。

というあたりがわかったこと。

しかし、石垣島の中華料理店は台湾出身者が始めたから、四川料理のように辛くなくて、辛いのが苦手な石垣島の人々にも受け入れられた、とあるけれど、じゃあ、何料理がベースなの?? 1930年代に来た人々は、台湾のどこから来たの?? 名蔵のお祭りは台湾のどこのお祭りが由来なの?? と、知りたいことは謎のまま。

もとより142ページのガイドブックには過大な期待だったかもしれない。「石垣島で台湾を歩く」という本書の目的は果たされているのだから。

石垣島の中華料理店では、回転テーブルに椅子ではなくて、お座敷に回転テーブルというのが面白いなぁと前々から思っていたのだが、それはどんな宴席でもすぐに三線を持ち出して唄う石垣島の風習に合わせてそうなった、というくだりを読んで、人の交流ってこういうことだよなぁと思ったのだった。次に石垣島に行ったときには、中華料理店もそういう目でじっくり見て味わってこよう。

書誌情報
『石垣島で台湾を歩く もうひとつの沖縄ガイド』
編著:国永美智子、野入直美、松田ヒロ子、松田良孝、水田憲志
発行:沖縄タイムス社(2012年3月)
1500円+税(2018年に石垣島の山田書店で購入)
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