八重山の筝曲に入門したてのころ、「箏は見た目が九割」という格言のようなものを聞いて、かなりの衝撃を受けました。最近はあまり聞かなくなった気がしますが、煩悶するほど言い得て妙にも思えることばです。
驚いたわけ
このことばを初めて聞いたころは、唄三線の人数に対して箏伴奏の人数がとても少なく、合奏時に箏の近くに置かれるマイクもあまり音を拾っていないのではないかと疑ってしまうぐらい、箏の音色をあまり聴くことがありませんでした。演奏会では箏が最前列に並ぶことが多いのもあいまって、「音色は期待していないけれど、見た目に場を華やかにするのが箏の役割」と言われたように感じたのです。
当時、箏の奏者のほとんどが女性だったことも、そう捉えてしまった原因です。数年前とはいえ、いまよりもはるかに女性がルッキズムにさらされていて、そうした言動に過敏になっていました。
ときには逆手にとって
最前列に並んで合奏をすると、演奏者の技術力の違いや弾き間違いが観客から一目瞭然になるというプレッシャーが箏奏者にはあります。悔しいから早く上達したい、でもまだ上手ではない、でもベテランさんとの差をあまり目立たせたくない、と若輩であるほど考えてしまうものです。そのうえ箏は、少しとちると、途端にどう弾いていいのか混乱する楽器です。
先輩方は初心者だったわたしを安心させるためにも、「箏は見た目が九割」と言われたものでした。つまり、万一舞台でとちってしまったら、「音は奏でられなくても、それっぽく手を動かして弾いているふりをしているのが肝心よ」という具体的なアドバイスです。
その真意は?
八重山民謡における王道の三線と比べると、箏は技の数が格段に多いため、初心者のころは技をかけるだけで必死でした。技の精度を上げていくのは二の次、ましてや見た目なんて気にしてられない、という状況でした。
でも、どんな楽器でもそうですし、おそらくどんな手仕事も、舞踊などの体を使う所作も同じだと思いますが、雑な動作をして、優れた音・もの・表現ができることはありえないでしょう。ただ必死に譜面通りに箏を弾いているだけでは、もしかしたらいつまでもこなれた演奏にならないのでは、と考え始めるようになりました。
少しずつでも技の精度を上げることを目標にし、難しい技を必死で弾いているとしてもそれをできるだけ見せないように、できる限りなんてことなく弾いている「ふり」をしながら弾くことを、心がけるようになりました。すると、その「ふり」が、だんだんと「ふり」をしなくてもできるようになっていきました。音の大きさがちぐはぐになったり、技のタイミングがずれたりすることも減っていきました。音色と見た目は、どちらかから向上させるものではなく、ともに向上していくものだと実感できたのです。
つまりは、「見た目に美しく演奏をしている奏者は、音色も美しく、優れている」のであり、「箏は見た目が九割」も拡大解釈すれば、ポジティブに受け取れなくもないと思えるようになってきました。
見た目を正して上手な「ふり」をしたり、とちっても動じない度胸を身につけたりしながら、所作から技術力を上げていくのも、成長の道筋としてわかりやすいかもしれません。わたしは生徒さんには、ことさら「箏は見た目が九割」と説きませんが、正しい所作と度胸を早く身に着けて、演奏を楽しめるようになってもらいたいと願っています。