三線も歌も-新安里屋ユンタ

新安里屋ユンタ[しんあさどやゆんた]

サー君は野中のいばらの花かサーユイユイ
暮れて帰ればやれほんにひきとめる
又ハーリヌツンダラカヌシャマヨ

——
玉代勢長傳編『八重山民謡舞踊曲早弾き工工四』2006年、pp.84-85(初版1988年)

 その日は前触れもなくやってきた。

 東京を引き上げて、中日本に引っ越すという友人の送別会で、予期せず彼女は語り始めた。数ヶ月前に八重山民謡を習い始めた、教室は隣町にある、今後も定期的に東京に来て教室に通い続ける、と。

 遡ることその15年前、学生時代にわたしは、ミンサー織をテーマに八重山で文化地理学の調査・研究をしていた。聞き取り調査に協力していただいたり、滞在中に気遣っていただいたりと、多くの方々のお世話になって無事に論文を書き上げることはできたのだが、反面、八重山文化を調べて記述するということが、研究者としても人間としても未熟だったわたしにはあまりにも大きなチャレンジだったために、燃え尽きてしまったのである。八重山の思い出は甘酸っぱさよりも苦さが勝ってしまい、足が遠のいてしまった。そんなことを友人に語ったのすら忘れていたところに、この話である。

 え、八重山が? そんな近所に? 東京広しといえど八重山の何かに出会うことなんてあまりない。いや、めったにない。稀に沖縄料理店で請福や八重泉を見かけるぐらいだのに、八重山文化の本丸である民謡の教室が、まさかの隣町にあるとは。

 そのまさかに、苦さを忘れて浮かれてしまったようである。友人に誘われるままに、2日後、わたしはいそいそとその教室のレッスンに見学に行った。出不精で人見知りのわたしとは思えぬフットワークである。しかも普段なら、事前にあれこれ検索しまくるたちなのに、このときばかりは師匠がどんな人なのか、どんな教室なのか、下調べすることも友人に尋ねることもなかった。だから稽古場に着いて驚いた。年若い友人からは想像もつかないような、ザ・島んちゅな風体のオジサンが現れたのである。

 和室に長机を並べた中央に、そのオジサンこと八重山古典音楽安室流保存会の師範である師匠が座り、生徒たちが周りを取り囲む。「このクラスの生徒たちは、まだ始めて数ヶ月から1年ぐらいの初級者です。三線は工工四を見ながら、すぐに弾けるようになりますよ」と師匠。

 聴いたことがあるような、ないような曲の数々。思っていたよりも、どの唄もメロディがゆったりとしている。合間合間の師匠による歌詞や歴史の解説が興味をそそり、レクチャーコンサートに来た気分で次の曲、次の曲、と聴いているうちに、3時間近くが経過していた。

 最後に「この曲は知っているんじゃないですか。せっかくですから、一緒に唄いましょう」と師匠が選曲したのが「新安里屋ユンタ」だった。もちろん知っていた。竹富島で牛車に乗りながら聴いたことがあったし、それよりずっと以前から八重山といえばこの曲、とばかりに口ずさむことができた。師匠と、後に先輩となる生徒たちの声に合わせて、ささやくように唄ってみた。他人と一緒に唄うなんていつ以来だろう。三線の響きに合わせて唄うのが存外心地いい。

 ユンタは八重山の古い形態の唄であること、古い形態の「安里屋ユンタ」が存在すること、その「安里屋ユンタ」を元にアレンジされたものだから「新安里屋ユンタ」と呼んでいること、アレンジしたのは石垣島が生んだ偉大な音楽家である宮良長包氏であること等々。既知の曲だけあって、師匠の解説がすんなりと理解できる部分と、だからこそもっと知りたくなるところがあって、もうこれは入門させてもらうしかないなぁ、とすでにこの時点で気持ちが前のめりになっていた。

 ふと気になって、ほかの人たちがどんな動機で始めたのか聞いてみた。「三線を弾けるようになりたかったから」と理由を挙げた人は、「三線が弾けるだけでよかったのに、三線を弾くなら唄わなきゃいけなくて。唄が難しい」と渋い顔をした。たしかに、さっきまで聴いていた曲はすべて、全員が、三線を弾きながら唄っていた。ということは、わたしも、両方できるようにならなきゃいけないってこと⁉︎

最新情報をチェックしよう!